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2007年10月05日

深刻なミャンマーについて

国名
正式名称のビルマ語表記は、右表の日本語表記の下を参照。ラテン文字転写(一例)は、Pyidaungzu Myanma Naingngandaw (ピダウンズ・ミャンマー・ナインガンドー)。通称は、Myanma Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。

1989年以降の公式の英語表記は、Union of Myanmar(ユニオン・オブ・ミャンマー)。通称は Myanmar。

1989年以降の日本語表記は、ミャンマー連邦。通称は、ミャンマー。

1948年から1974年までと1988年から1989年までがビルマ連邦、1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国。通称は、独立以前から一貫して、ビルマ。漢字で緬甸と表記され(読みは「ビルマ」)、緬と略された(読みは「メン」。泰緬鉄道など)。日本軍統治(太平洋戦争の間)通称にされる。 緬甸は、中国語からのそのまま輸入されたもの。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。

1989年6月18日に軍事政権は、国名の英語表記を、Union of Burma(ユニオン・オブ・バーマ)から Union of Myanmar に改称した。軍事政権が代表権を持つため国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。また日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続ける社・媒体(朝日新聞社、『週刊金曜日』など)もある。アウンサンスーチーや亡命政府「ビルマ連邦国民連合政府」など軍事政権の正当性を否定する側は、改名が軍事政権による一方的なものだとし、英語国名の変更を認めていない。タイの英字紙、英BBC、「ワシントン・ポスト」などの有力英語メディア、ドイチェ・ヴェレやARDなどのドイツ語メディア、および主要な人権団体は "Burma" の呼称を続けている。アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア政府などは "Burma" とし、EUは "Burma" と "Myanmar" を併記している。一方、ロシア・中国は軍事政権との良好な関係から「ミャンマー」を使用している。

ビルマ語では、「ミャンマー」も英語の Burma(バーマ)の由来となった「バマー」も同じ意味の言葉であり、前者が文語的、後者が口語的に使用されることが多いという違いがあるだけで、国民は特に意識することなく併用している。いわば「にっぽん」と「にほん」の違いのようなものである。正式名称としては、独立以来ずっと文語的な「ミャンマー」の方を使用してきており、1989年の英語表記変更によって呼称が統一化されたことになる。


歴史

ビルマ王朝
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ人がミャンマーに侵入してパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人によるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。


イギリス統治時代
コンバウン朝ビルマは、イギリス領インド帝国に対する武力侵略を発端とする英緬戦争を引き起こした。1824年から1826年にかけて戦われた第一次英緬戦争では、ビルマがインドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求、イギリス側が拒否すると武力に訴えたが敗れた。イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争では、ビルマは国土の半分を失い、新首都マンダレーを建設して遷都する。1885年の第三次英緬戦争でコンバウン朝は滅亡し、ビルマは1886年にイギリス領インド帝国に併合されてその1州となった。ティーボー・ミン国王 (Thibaw Min) と王の家族はインドのゴアに近いラトナギリに配流され、その地で死亡した。

ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中にはじまり、世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年にはタヤワディ地方で農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がったが1931年半ばに鎮圧された。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になるが、イギリス人総督の権力は統治全版に及び、自治は形式的なものに過ぎなかった。そのころ日中戦争の局面打開のためビルマでの勢力拡大を狙っていた日本軍は、南機関を設置してアウン・サンら独立運動家を支援した。

1942年、アウン・サンらはビルマ独立義勇軍を創設し、日本軍と共にビルマへ進攻してイギリス軍を駆逐した(ビルマの戦いの始まり)。ミャンマー国軍は1942年のビルマ独立義勇軍健軍をもって国軍建軍としている。1943年日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。しかし日本軍はインパール作戦で失敗を繰り返すなど敗色濃厚となり、アウン・サンらは反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、パサパラ)を結成した。

1945年3月、アウン・サンはビルマ国民軍を指揮し、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こしイギリス側に寝返った。ほどなく連合軍はラングーンを奪回し、ビルマ国政府は日本に亡命した。しかし、太平洋戦争後もイギリスは独立を許さず、ビルマは再びイギリス領となった。現ミャンマー連邦政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、太平洋戦争中のビルマ国との連続性を認めていない。

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